浦和地方裁判所 昭和52年(ワ)444号 判決 1986年7月17日
原告
甲田花子
原告兼原告甲田花子法定代理人親権者父
甲田英
原告兼原告甲田花子法定代理人親権者母
甲田桃江
右三名訴訟代理人弁護士
江藤鉄兵
右同
椎名麻紗枝
右同
紙子達子
右同
桑原宣義
被告
埼玉県厚生農業協同組合連合会
右代表理事
牛窪徳治
右訴訟代理人弁護士
饗庭忠男
右同
小堺堅吾
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 原告ら
「1 被告は、原告甲田花子(以下、「原告花子」という。)に対し、金三六八九万円、同甲田英(以下、「原告英」という。)、同甲田桃江(以下、「原告桃江」という。)に対し各金三九五万円、ならびに、内原告花子に対する金三三八九万円、同英および同桃江に対する各金三六〇万円については、昭和五二年六月二八日以降各完済に至るまで、内原告花子に対する金三〇〇万円、原告英および同桃江に対する各金三五万円については、判決送達の翌日以降完済に至るまで、それぞれ年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は、被告の負担とする。」との判決ならびに仮執行宣言
二 被告
主文同旨の判決
第二 当事者の主張
一 請求の原因
1 当事者
(一) 原告花子は昭和四七年一一月二一日生まれの女児で、原告英は原告花子の父、原告桃江は原告花子の母である。
(二) 被告は、その業務のひとつとして医療に関する施設、農村の生活および文化の改善に関する施設などの事業を営む厚生農業協同組合連合会で、埼玉県北葛飾郡幸手町幸手一〇六四番地において、幸手総合病院(以下、「被告病院」という。)を経営し、産科医等を雇用して医療行為にあたらせている。<以下、事実省略>
理由
第一当事者
請求の原因1(一)(二)の事実は当事者間に争いがない。
第二本件事故の発生
原告花子が昭和四七年一一月二一日午前四時四〇分、被告病院において出生したこと、原告花子は在胎週数二七週、生下時体重一一五〇グラムの未熟児であつたこと、鈴木医師の指示により出生直後から保育器に収容され、昭和四八年二月一一日まで八三日間酸素投与を受けたこと、原告花子が本症に罹患したことはいずれも当事者間に争いがなく、<証拠>を総合すると、原告花子は、被告病院において保育されている間に本症に罹患し、その結果、両眼を失明するに至つたことが認められる。
第三被告の債務不履行責任の有無
そこで、まず原告花子の失明という結果について被告に債務不履行責任ありとの原告の主張について以下検討する。
一原告花子の出生までの経過
<証拠>をあわせると、原告桃江は、昭和四七年六月一四日被告病院の鈴木医師の初診を受けたが、その際、出産予定日は昭和四八年二月一一日であることを告げられると共に、切迫流産の診断を受けたので、その後、定期的に被告病院で診察を受けるようになつたこと、昭和四七年一一月一七日原告桃江は腹部緊張の症状を呈し、切迫流産の診断を受けたため同日より被告病院に入院し、同月二一日午前四時四〇分原告花子を自然分娩したことが認められる。
二診療契約の締結
そして、原告英、同桃江が、昭和四七年一一月二一日原告花子の法定代理人として、被告との間で被告病院において原告花子に適切な看護、保育をなす診療契約を締結した事実及び被告が鈴木医師を雇用して、履行補助者として原告花子の診療にあたらせた事実は当事者間に争いがない。
三診療契約の内容
ところで診療契約にもとづく医療機関の具体的債務(履行補助者のそれを含む)は、善良な管理者の注意をもつて、患者の具体的症状に対応し、当時の医療水準に照らして、合理的な医療行為を行い最善の努力をすべき義務を内容とするものであるから、医療機関に右義務違反がある場合には当該医療機関は帰責事由がないことを主張立証しない限り、不完全履行として債務不履行の責任を免れない。そこで、以下原告が主張する被告の義務違反の有無につき検討することとする。
四被告の義務違反の有無
1 酸素管理義務違反の有無
原告らは、原告花子が本症により視力を喪失したのは、被告病院担当医師らが漫然と機械的に原告花子に対し酸素を投与をし、本症に罹患せしめたためであると主張するのでこの点につき検討する。
(一) 本症に関する知見<省略>
(二) 未熟児の保育と酸素療法<省略>
(三) 原告花子に対する酸素投与<省略>
(四) 鈴木医師の義務違反の有無
(1) 本件の場合、原告花子が生下時体重一一五〇グラムの未熟児であり、出生当初からチアノーゼが断続していたことから、同原告に対し、酸素投与を行う必要性があつたことについては疑いを入れない。
(2) そこで、原告花子に対する酸素投与量および酸素投与期間の点について考えてみるのに、前記認定のとおり、七〇日間は終日、一三日間は夜間のみ合計八三日間という比較的長期にわたり原則として常時二リットルの酸素投与がなされており、しかも、鈴木医師は、投与酸素濃度が四〇パーセント以下であれば本症発生の危険はないと考えて原告花子の診療にあたつており、前記(二)(2)認定の本件当時における酸素療法に関する指針には必ずしも従つていなかつたことが認められる。
しかしながら、本症の発生を防止するため酸素投与量を制限することは低酸素症による脳障害ないし死の危険を生ぜしめることになり、この両者はいわば二律背反の解決困難な関係にあるうえ、右治療指針は、眼科医を中心とする本症の研究者や臨床家らの間で唱導され、実施の促進を図られていたものに過ぎず、必ずしも一般的に受容されて普及していた治療基準にまではなつておらず、従来通り脳や生命を救うために予防的に常例的酸素投与を勧める見解も依然として存在していたこと、そしてこのように治療方針に関する見解が対立する場合そのいずれに従つて実際の治療にあたるかについては、右方針がその当時の医療水準に照らし一応合理的であると認められる限り、当該医師の裁量の範囲内にあると考えられること、また、患者には個体差があるうえ、その症状もまちまちであつて、時々刻々と変化する患者の病状に対し臨機応変の措置を迫られる医療の性格上、右対立する見解の一を採用するについてもこれをそのまま受け入れ難い場合もあるものと考えられること、さらに、本件における鈴木医師の酸素療法につき、より仔細に検討すると、本件投与酸素濃度は毎分二リットル約三五パーセントが原則とされているところ、本症発生の危険性という観点からみると、約三五パーセントという濃度は必ずしも過剰なものということはできないこと、また酸素投与期間の点については、右期間が比較的長期にわたつたのは、前記認定のとおり原告花子がチアノーゼやけいれん等を反覆し、その全身状態が安定しなかつたためであつて、逆に右全身状態が安定した後は、ほどなく鈴木医師は夜間のみの酸素投与に切り替えており、原告花子の臨床症状と離れて機械的に酸素を投与したものとは認め難いこと、加えて、鈴木医師は、生下時体重が僅かに一一五〇グラムという原告花子の診療を担当するにあたり、その生命を救うため、その酸素投与を制限することについては慎重にならざるを得なかつたと推認されることなどの事情に照らすと鈴木医師の原告花子に対する酸素投与上の処置が合理性を欠くものであつたとまでは認めることはできない。
したがつて、原告花子に対する酸素投与に関し、鈴木医師に本件診療契約上の義務違反があるとはいえない。
2 全身管理義務違反の有無
原告らは、被告病院が原告花子の保育にあたり、常時注意がゆき届くような態勢をとつておらず、鈴木医師も原告花子の低体温状態の改善措置を講せず、その全身状態を把握するための体重測定も怠つた旨主張するので、この点につき検討することにする。
(一) 未熟児の保育にあたる病院及び医師は、未熟児が生理機能全般の発育が未熟なため、生命力が弱く各種疾病に罹患し易いことから、その生命を守り順調な発育を促進するため、未熟児の管理を十分なしうる態勢を整え、未熟児の全身状態に注意を払い、状態が良くない場合には、これを改善すべき診療契約上の義務があるものと解される。
(二)<省略>
(三) そこでまず被告病院の未熟児管理態勢に関する義務違反の有無につき考えてみるのに、なるほど病状の変り易い未熟児を扱う病院としては、医師又は看護婦が常時これに付き添いその診療看護にあたる態勢をとることが最も望ましいことではあるが、人的物的制約等から、その態勢整備の努力にも一定の限界があるというべく、当該病院としては右制約の範囲内で相当の医療行為を行うことが期待されるにとどまるものと解される。
ところで、右被告病院の所在地、病院の性格、施設規模、勤務する医師、看護婦及び助産婦の数、本件当時における入通院患者数、医師等の回診状況等の諸点を総合勘案すれば、本件において母子同室とし、原告花子の保育について被告病院が原告桃江の協力を求めたことをもつて、直ちに当時における被告病院の未熟児管理態勢に不備な点があつたということはできず、結局、原告らの主張の管理義務違反は認め難い。
次に原告らは鈴木医師の原告花子に対する低体温状態の放置、体重不測定などの診療措置の不適切を主張するのでこの点につき検討するに、前に認定したところによれば、なるほど原告花子は出生後、昭和四七年一二月二三日まで体温三五度以下の状態が続いたこと、体重については、その出生後、一二月二三日まで測定された記録がないうえ、翌日以降の体重増加状況も必ずしも芳しくはなかつたことが認められるが、他方、<証拠>に照らすと、前認定の鈴木医師の原告花子に対する栄養補給措置、消化及び成長促進のための投薬措置、保育器内の温湿度維持措置は、本件当時における未熟児保育の指針に一応沿うものであり、医師としての裁量の範囲内にあつたものと認められるから、結局、鈴木医師の原告花子に対する全身状態の管理に義務違反があつたものとは認められない。
3 光凝固法実施義務違反等の有無
原告らは、酸素管理義務違反のほか、眼底検査義務違反を主張しているが、右の義務違反は、光凝固法の実施義務等を前提とするか、あるいはこれと密接な関係を有していると解されるので、先に光凝固法関係の義務違反の有無につき判断することとする。
ところで、右光凝固法による治療を実施しなかったこと等の不作為について、債務不履行責任を問うためには、原告らの主張する作為をしていれば、原告花子の視力障害の結果は発生していなかつたという因果関係が認められることが前提をなすことはいうまでもないが、本件においては、右因果関係の点の判断はしばらくおき、まず、原告らの主張する作為義務違反の有無の点から検討することとする。
(一) 光凝固法の有効性及び治療法としての確立の有無
①ないし③<省略>
④ 以上のような経緯に照らすと、光凝固法が本症の治療法としての確立をみたのは、本症の治療基準が示された昭和五〇年三月の右「研究報告」発表以降であると認めることが相当であつて、本件当時にあつては、光凝固法は、いわゆる激症型を除く本症に対して有効であると一応認められてはいたものの、未だ治療法として確立していなかつたとみるのが相当である。
(二) 光凝固法実施義務の有無
被告病院において光凝固法を実施しなかつたことは証人鈴木善雄の証言ならびに弁論の全趣旨により明らかであるが、本件当時における前記医療水準からみて光凝固法を実施しなかつたことをもつて医療契約上の義務違反とはいえないことになる。
4 光凝固法実施のための転医義務違反の有無
次に、原告らは、鈴木医師が被告病院にて原告花子に対して光凝固法を受けさせることができない場合には、これを受けさせるため他の適当な病院に転医させるべき義務があると主張するが、当該患者の診療を担当した医師に転医義務が認められるためには、治療法が確立し、かつ一般の医師がその治療法の有効性及び必要性を認識しているかあるいは、これらを客観的に認識しうべき状態となつていることが必要であると解される。しかしながら、当該治療法が確立していない場合は右治療法を自ら実施する義務を負わないのと同様に、治療の機会を与えるための転送義務も負わないものと解される。
そうすると、前記認定のとおり、本件当時、光凝固法が本症の治療法として確立していたとはいえない以上、被告が原告花子に光凝固法を受けさせるための転医義務を負うているといえないことは明らかである。
5 光凝固法に関する説明義務違反の有無
また、原告らは、被告が原告花子の両親である原告英、同桃江に対し、本症発生の危険があること、本症の内容、予防方法、早期治療法などを説明し、光凝固法の適用が可能な病院等について教示し転医して最良の治療を受ける機会を与える義務があつたのにこれを怠つたと主張する。
おもうに、医療機関としては自ら医療水準による医療行為を行いえない場合、あるいは、自ら実施予定の医療行為が治療方法として存在しこれとは別異の医療行為も治療方法として存在し、そのいずれもが医療水準として確立されている場合、そのいずれの医療行為を受けるべきかにつき患者側に選択の余地がある場合には患者またはその家族にこのことを説明し、転医等の機会を与えることに資する法的義務を負うているとみるべきであるが、その他の場合は患者の身体に重大な侵襲を伴なう医療行為をしようとする場合等を別として説明をするかどうか、説明をするとしてどの程度するかは法的にはその裁量に委ねられているとみるべきである。
本件の場合、医療機関が説明につき法的義務を負うている場合にあたることを認めるに足りる証拠はない。
そうすると、証人鈴木善雄の証言および原告英、同桃江の各本人尋問結果ならびに弁論の全趣旨を総合すると、鈴木医師は、原告花子の入院期間を通じて原告英、同桃江に対して、格別本症発生の危険、本症の内容、予防方法、治療方法を説明したことはなかつたことが認められるけれども、被告に説明義務違反は認められないことになる。
6 眼底検査実施義務違反の有無
原告らは鈴木医師が原告花子に対し定期的眼底検査を実施すべき義務があるにもかかわらず、これを怠つたため、本症の発生進行を把握することができず、これに即応した酸素療法あるいは光凝固法による治療を受ける機会を失わせた旨主張する。
(一) ところで、眼底検査を実施しなかつたことについて、担当医に義務違反が認められるためには、右眼底検査の実施が一般の医療水準となつていることが不可欠であると解される。そこで、以下、右の点につき検討する。
(二) <証拠>をあわせれば、次の事実が認められる。
本症に対する予防又は治療を前提として定期的眼底検査を行うべきであるとの見解は昭和四〇年ころから前記植村恭夫らによつて、眼科雑誌をはじめとする各種文献等において提唱されるようになつたが、その当時においては、未熟児の出生後、一週ないし二週ごとに眼科医による定期的眼底検査を行うことにより、本症を活動期の可逆性のある時期に発見し、適当な酸素供給、ACTH、副腎皮質ホルモン剤の投与を行うことにより本症を治癒させることができるとの見解が述べられていた。しかし、その後、本症に対する研究が進展し、本件当時ころの段階では右各治療法の有効性に疑問がもたれるようになり、現段階では、結局、眼底検査の結果を指標として酸素投与量を調節する方法は、本症の発生及び進行の予防にはならず、ACTH、副腎皮質ホルモン剤の投与も本症を治療する効果は認め難いことが判明している。これらの方法と並んで、前記認定のとおり昭和四二年に永田医師らにより光凝固法による本症の治療法が発表されて以来、定期的眼底検査は、前記各療法を実施する目的に代わつて次第に光凝固法により本症を治療する目的、特に光凝固法の実施適期を判定することを目的として実施すべきことに重点が置かれてその実施が唱導されるようになつた。
(三) このように光凝固法を除く右各療法は、いずれもその有効性自体が否定されており、これらの療法をとることを前提とした眼底検査は、本症の予防、治療という面では意味のないものであつたという他なく、本件当時において、その実施義務を認めることはできない。そこで残る光凝固法の実施を目的とする眼底検査についてみるに、前記認定のとおり、本件当時において、光凝固法の有効性は未だ治療法として確立していなかつたのであるから、かような未確立の治療法を実施することを前提とする眼底検査の実施義務を医師に課すことはできないものといわなければならない。
(四) ところで、鈴木医師が原告花子に対して、一度も眼底検査を実施せず、他の医師をしてもこれを実施させなかつたことについては当事者間に争いはないが、右に述べたとおり、本件当時においては、そもそも本症の予防、治療に関しては、一般的眼底検査義務が存在しなかつたのであるから、鈴木医師の原告花子に対する右眼底検査不実施につき義務違反を認めることはできない。
以上のとおりであるから、原告らの主張する被告の本件診療契約上の義務違反はいずれも認めることはできない。
第四被告の不法行為責任の有無について
原告らは、被告に対し右債務不履行責任と選択的に契約上の義務違反として主張するのと同内容の注意義務違反として不法行為責任を主張している。
しかしながら、鈴木医師には、前項と同様の理由から、やはり、右注意義務違反があつたものと認めることはできないから、被告に不法行為責任がありとはいえない。
第五むすび
そうすると、原告らの本訴請求は、その余の点について判断するまでもなくいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官小笠原昭夫 裁判官野崎惟子 裁判官樋口裕晃)